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基隆 和平島

台北市から車で45分くらい走ると、国際貿易港で有名な『基隆港』があります。北東側には、和平島公園がありますが、そこの地域は以前『社寮島』と呼ばれていました。

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基隆は1626年にスペインが北台湾に上陸する際、入口となった場所、それよりも大分前、1372年から250年以上続いた中琉朝貢貿易において『雞籠(基隆)』は、東亞海域を航行する上で、重要な指標になる場所だったと言われています。

雞籠(基隆)では、中國の閩浙人、琉球人、日本人が物々交換する國際貿易を行い、台湾の硫磺、鹿肉、獸皮、樹藤、染料植物、漁獲等と引き換えに、反物や、陶器、鐵器、タバコなどとが取引されていたそうです。

琉球漁民は1905年頃から、久高島出身の海人・『内間長三氏』(1,881-1,953)が、基隆に移り住んだ時期から、様々な離島から『海人』が集まり、南方カツオ漁の拠点として栄えました。
日本統治時代の台湾には、沖縄から移住した人たちは1万人を超え、一時期は600人以上が社寮島の集落に住んでいたと言われています。
豆腐の商売で成功したウチナンチュ『玉城達男氏』は、基隆市の水産会長と市議会議員、沖縄県人会長の要職を務める社寮島の名士でした。

以前、和平島(社寮島)は、祭りの中で海人が組踊を行い、台湾中からウチナンチュが集まる。そんな場所でした。
久高島の漁民は、琉球王朝時代に交易船の船員として海外を訪ずれ、海の知識に長けていたそうです。

漁場を知り、漁法技術を伝える琉球漁民は、現地の方々から「海の神様」と地元で呼称され尊敬され慕われ続けていたそうです。
二二八事件の際、不慮の死を遂げた琉球(沖繩)漁民,と、海難や戰火でお亡くなりになった方々は、和平島公演内にあるお寺、社寮外嶋集善堂にて祀られています。

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沖縄の祖先と深い関わりがある基隆和平島、是非訪ずれてみてはいかがですか?


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